13年越しの想い、やっと、成就されましたぁ~~。

私ってほんと一途だわぁ(笑)


もう、ずっと、見たかってん!!


身毒丸 蜷川幸雄演出
藤原竜也×白石加代子


会場に迸る情熱に、心底酔いしれました。

紙芝居のようであり、映画のようであり、夢のようでもある、そんな舞台でした。


愛憎劇です。シンプルすぎるくらいシンプルな主題です。

憎みあいながら愛し合う、血の繋がらない親子。息子は、継母を拒絶し本物の母を探す、母は男を求め、いるはずのない本当の息子を想うのです。傷つけ傷つきながら、二人はお互いを許し、和解します。「家」から解き放たれた二人は、親子になるのか、恋人になるのか。雑踏の中に消える二人の背中は、どことなく不穏な気配を醸し出していました。

愛憎劇の悲哀以外に私が感じたものは、家に対する警句です。というのも、この二人の愛憎劇は、父親が母を、「買う」ことから話が展開するからです。愛した人ではなく、ただ息子の成長や家としての機能だけを考えて、母を買う。とても異常な考えであるのに、当人(父親)はそのことに気付きません。とても怖いと思いました。

私達は当り前のように「家」に帰り、「家」で生活をしています。それが恰も普遍的で当然そこにあるもの、と思い上がってしまうほどに。「家」を形成するものを型にはめ、当然とされる役割を宛がう。それが本当はとても恐ろしいものではないか、と思うのです。「家」の様式は、千差万別。マジョリティであることに優をつけるのなら、劣とは一体何であるのか。私達は理想というものを、形骸的に捉え過ぎているのかも知れないな、と感じました。もっとぼんやりとした夢とも幻ともとれるような、そういう思念のような感情の中に、理想とはあるべきではないのか、と。


蜷川さんの演出の凄さは、舞台に、役者を押さえ込む力強さがあることです。引き立て役にならない。同じ力が拮抗している印象を受けます。その見事さに唸りました。いつも感じる事ですが、役者の上手さとか下手さとか、そう言うのを論じる隙を与えない、ということ。舞台全体でもって、観ている側の五感に訴えかけてくる力に圧倒されます。

役者の力を最大限に引き出し、その魅力を自分の独特の雰囲気へ見事に投影させる。それが、蜷川さんの魅力であり、強みなのかな、とこの舞台を見て思いました。音楽や舞台装置、衣装。すべてにおいて、シンプル。それでいて猥雑。なんという矛盾でしょう。流石の一言でした。


舞台とはこうあるべきなのだなぁ、と有無を言わせないものがありました。まぁ、役者さん全てが、達者であったから成り立つ事なのかも知れませんが・・・。